BOSTON
POPS
ボストン・ポップスの歴史
ボストン・ポップスは、ボストン交響楽団を設立した大資本家で音楽好きであったヘンリー・ヒー・ヒギンソンが、夏の間、市民の人達にクラシック音楽を楽しんでもらおうと、同楽団を使って開いたのが始まりと言われています。会場の1階の椅子を取り払って丸テーブルと折り畳みの椅子を入れてワインや軽い食事をしながら、軽いクラシックを楽しんでもらおうとしたわけです。そしてついにそれが1885年の7月から開始されたのです。この評判はまたたく間にボストン市内に広がり、人気を博していきました。1930年代には、あのアーサー・フィードラーが音楽監督を勤め始めました。しかしまだ彼は、20代の若さだったのです。あまりにも人気が高い為、オーケストラは超ハードな毎日を過ごしたのです。これにはメンバーから不満が爆発、そこでフィードラーは、もう1団体、ポップス専用のオーケストラを作ったのです。楽員はボストン近郊に住む、フリーの優れたミュージシャンから成り立ち、7月の1週間を野外ステージのあるエスプラネード遊歩道で無料のコンサートを開始しました。これがボストン ポップス・エスプラネード・オーケストラです。
78年にフィードラーが他界すると、あまりにも彼の存在が大きかった為に後任は長らく決まりませんでした。そこで、以前何回か客演で振りに来ていたウィリアムズに白羽の矢がたったのでした。楽団側にとってはかなり厳しい選択だったのですが、これは大成功を果たしました。ボストン・ポップスはハリウッドの映画音楽をたくさん演奏しはじめ、また別の観客をも虜にしたのでした。彼の就任の間、初の全米ツアーと3回の日本公演を成功させました。それはフィードラーよりも人気を博すことになっていったのです。93年にウィリアムズが映画音楽に専念するために、勇退すると、またもや楽団は後任に苦労しました。一時はハリウッドボウル・オーケストラのジョン・マウチェリーにも白羽の矢がたちましたが、彼は今のポストを離れたくないと言って、丁重にお断りしたそうです。そこで、楽団は、シンシナティ・ポップスの若手準指揮者キース・ロックハートを迎え入れました。彼は甘いマスクで女性たちを虜にしてしまっていたのです。これにより、現在のコンサートでは若い女性の観客が多くなったとか。とりあえず、成功している様です。

ボストン ポップスの期間
ボストン ポップスのシーズンは5月初めから8月の終りまでです。さきほど書いた様に、2団体で運営されています。本家のボストン・ポップスは、ボストン交響楽団の首席奏者を除いたメンバーで構成され、その抜けたことで不足したメンバーをエスプラネード・オーケストラの首席奏者で補っています。そして7月の頭に無料の野外コンサートが開かれます。8月になるとボストン交響楽団事態がタングルウッド音楽祭に行ってしまう為、コンサート会場のシンフォニーホールはお休みとなります。また、12月にクリスマス・ポップスと言うシーズンがあり、3週間だけ冬の間も行われます。
コンサートは超ハードで、1週間の内、お休みの日が月曜日しかありません。プログラムも日によって違い、ジャズ、軽クラシック、映画音楽、ゴスペル、ミュージカルと多種多彩です。是非、ボストンへ行かれる様なことがあれば、ボストン・ポップスのコンサートをを観ることをお薦めいたします。


来日記者会見で。右はボストン・ポップスの母体である、ボストン交響楽団の音楽監督の小澤征爾氏。う〜ん、2枚目だ。
キース・ロックハート・インタビュー
ボストン・ポップスの若きマエストロ(音楽監督)
1995年、ボストン・ポップスは勇退したジョン・ウィリアムズに代わって、新しい音楽監督を迎えた。彼こそキース・ロックハート、若干、36才の若き指揮者である。彼は1959年11月7日、ニューヨーク州ポフキーピス生まれ。1989年にハリウッドボウルにデビューし、1991年にシンシナティ・ポップスの準指揮者に就任した。それを契機に全米のメジャー・オーケストラのポップス・コンサートを指揮。大変高い評価を得た。そして、ボストン・ポップスは若い彼の才能を高く買い、歴史的な決断をして、彼を音楽監督として迎えたのである。
Q:ボストン・ポップス・オーケストラが、ジョン・ウィリアムズの後任者としてあなたの事を水面下で検討し始めてから、決定に至るまでにしばらく時間がかかりましたね。その間どんな気持ちでしたか?
KL:あれこそ心臓が喉まで飛び出るような思いというやつでしたよ。 それまでにボストン・ポップス・エスプラネード・オーケストラを指揮した経験はありました。1993年の6月のことです。その時点では、ボストン交響楽団の関係者達は、まだボストン・ポップス・オーケストラの指揮者を探しているという素振りをほとんど見せませんでした。1993年の9月に、私はスペシャル・コンサートを指揮するため再び彼らに呼ばれたのですが、その時のことは前回よりもやや強く印象に残っています。ずいぶん私のことをよく調べているなあと思いました。その後、1994年の5月に、私はシンフォニー・ホールに招かれました。ボストン・ポップスのシーズン中に組まれていた、2回のプログラム違いのコンサートを行うためです。その頃までには、ボストン交響楽団のマネジメント・ディレクターのケネス・ハースが、全てを明らかにしてくれていました。今後末永く活躍できる人材として、私に興味を持っていると言ってきたのです。先程お話したような衝撃に襲われたのは、その時のことですよ。
私たちのような1960年代から70年代に少年時代を過ごした世代にとっては、ボストン・ポップス・オーケストラというのは生まれて最初に耳にするものの1つでしたね。PBSで放送されている「イヴニング・アット・ポップス」が、私にとってオーケストラ音楽との最初の出会いでした。私の長年の夢でしたよ−−−−すべての指揮者の夢でもありますが−−−そういう楽団と一緒に働くのはね。
Q:話を1990年の5月に戻しましょう。初めてボストン・ポップスと一緒にステージに立った時はどんな気分でしたか?
KL:ボストン・ポップスは仕事が大変きついことで有名です。このオーケストラは、必要とされていることを迅速に行うこと、誰の時間も無駄にしないことを要求してきます。ですから、どうしても少々の心配はありました。
しかし、現場に立ってみると、この仕事の楽しさがよく分かりました。演奏者たちの反応は驚くべき
ものです−−−−私が今までに指揮したオーケストラの中でも最も敏速な部類に入りますね。みんな喧嘩騒ぎが大好きで、段々競争になっていくんです。ビックリするようなアンサンブル合戦を見せてくれますよ。私もすぐに家族の一員のような気分になりました。
Q:1994年の10月に、とうとう小沢征爾との面接を受けた時は、どんな気分でしたか?
KL:あの時も、ほんの少しだけ不安はありました。それ以前に彼とお会いする光栄に浴したことがなかったからです。彼は驚くほど温かく、寛大な人でしたよ。私をくつろいだ気分にしてくれたので、会話もすらすらと進みました。私たちが話し合った内容はボストン響というより大きな組織の傘下にあるボストン・ポップスを彼がどう見ているか、その中に私がどう入っていけるかについてでした。お互いすぐ打ち解けた調子になりましたよ。
Q:小沢征爾の質問に戻りましょう−−−−ポップス・コンサートはボストン響の通常のプログラム編成とどのようにしてバランスを取っていくのですか?
KL:まず断っておかなければなりませんが、私は自分のことをポップスの指揮者とは考えていません。私は1個の指揮者であり、たまたま多種多様な音楽の演奏を楽しめる立場にあるのだと考えています。私にとってポップス・コンサートとは1つの手段です。伝統的なオーケストラの聴衆とは全く異なった層の聴衆を開拓するためのね。また、オーケストラというものが自分たちのコミュニティの貴重な財産であることを理解して下さる方々を増やすためでもあります。ボストン・ポップスの場合は、アーサー・フィードラーとジョン・ウィリアムズによって開かれたコンサートを通して、何百万もの人々が生のオーケストラ演奏の素晴らしさを教えられてきたのです。思うに、その事実こそがボストン・ポップスをかけがえのない財産たらしめているのですよ。
Q:そのような状況の中で、あなたはボストン・ポップスの将来のためにどんなプランを持っていますか?
KL:検討していることが二つあります。二つとも同じ方向のものです。一つは、ボストン・ポップスがボストンの大衆に提供する曲の種類を多様化させること。もう一つは、より若い、様々な層の聴衆にアプローチすることです−−−−勿論これは、どこのシンフォニー・オーケストラもやりたいと思っていることですが。
Q:そのプランのお話を整理してみましょう。どうやったらプログラムの幅を広げることができるのでしょうか?
KL:アーサー・フィードラーが確立したコンサート・スタイルは、「イヴニング・アット・ポップス」でも毎回採用されており、優れたものです。実に65年間に渡ってその目的に貢献してきたのですからね。ですが、あれがコンサートの楽しさの全てというわけではありません。それにボストン・ポップスのレパートリーも、あれが全てではないのです。
私たちは、メディア・ミックスを取り入れたコンサートを開けないかとも考えています。皆さんに喜
んで頂ければの話ですが。ボストン・ポップスと並んで、数人のゲスト・アーティストに登場してもらうのです。「イカした」方法を使ってね。そんな風にすれば、複数のタイプの音楽は共存できるのだ。そればかりか、お互いを高め合うことだってできるのだということを示せるでしょう。
Q:そういうプログラムは、明らかにあなたの二つめのプランにも役立つものですよね。つまり、聴衆層の拡張に。
KL:様々なタイプのコンサートを構想するには、私たちは発明心を持たなくてはいけません。様々なコンサート会場を想定する時も同様です。若い聴衆を集めるためにはね。人々が足を運んでくれたコンサートというのは、いつの時代でも娯楽色の強いものだったんですよ。しかし、私と同世代の人間が、10年ほど前から、ポップス・コンサートを魅力的な娯楽の一つと見なし始めたことも見逃してはなりません。
問題は、私たちは短期間で結果を出したいと思っていることです。私たちは、今すぐ聴衆をホールに集めたいのです。未来の成長を見越して、今のうちに種をまいておかなければなりませんからね。
Q:聴衆層を広げるための長期的な戦略としては、どんなものがありますか?
KL:私は、教育的なコンサートや、家族向けのコンサートを幾つも手掛けてきました。出来不出来はありましたが、どんなやり方が一番効果があるか、その目的は何であるべきかを、私は それらのコンサートを通じて考えてきたのです。私の結論では、このようなコンサートの最も重要な教育的目標とは、子供たちに楽しい時間を過ごさせてあげること、また来たいなと思ってもらうことです。私の経験から言っても、大人の観客を捕まえるには、その子供を捕まえるのが一番ですよ。クラシック音楽にも目を向けた質の高いエンターテイメントを生み出して子供たちを喜ばせることができれば、それはクラシック音楽を歓迎してくれ、クラシック音楽を聴いて感動してくれる世代を育成することにつながります。そのためには、子供たちを連れて親たちに来てもらうことです。だからこそ、私はボストン交響楽団の若者向けコンサートを振るのをとても楽しみにしているのです。
Q:ですが、現在のオーケストラ音楽の不人気は問題の一角に過ぎないのではありませんか? アーサー・フィードラーが若者だった時代と違って、今日のポピュラー音楽は、クラシック音楽から余りにも掛け離れているとも思われるのですが。
KL:20世紀を迎える前後の時代のポピュラー音楽は−−−−アーサー・フィードラーがボストン・ポップス・オーケストラに着任した1930年代でもそうでしたが−−−−今日では軽(ライト)クラシック音楽と呼ばれるものです。その頃のポピュラー音楽の基本的なサウンドや構成は、まだシンフォニック・オーケストラをベースにしていました。1960年代、ロックン・ロールの台頭と共にポピュラー音楽の基本的なサウンドやそのマテリアルは、今日のオーケストラ・コンサートで耳にするようなサウンドから離れてしまったのです。
私が思うに、私たちは無理をして自分たちに相応しくない音楽をやってはいけません。それでも、私
たちにやれることはたくさんあります。今、ポピュラー音楽のテイストは、本格的な変化を迎えているではありませんか。ナタリー・コールの最近の仕事を御覧なさい。彼女は、彼女の父親の音楽に立返っていますよ。1920年代や30年代のスウィングや素敵なソングも、マンハッタン・トランスファーやハリー・コニックJr.やマイケル・フェインスタインのお陰で、再び関心を集めていますよね。大勢の新たなリスナーが、このような音楽に押し寄せているのです。私たちにとっては、大きな好機ですよ。
Q:ポピュラー音楽に起こっている変化に対応していくこと以外としては、ボストン・ポップスはこの先どのようなことにチャレンジしていくのですか?
KL:全ての音楽と音楽家が直面している問題は、現代はヴィジュアルの時代だということです。現在、私たちの教養のほとんどは、聴覚よりも視覚から得られるのです。私が教育的なコンサートを指揮した時、映像をうまく使えば、聴衆を音楽に親しませるのに非常に役立つことが分かりました。勿論、主役を食ってしまうような映像では困ります。主役は飽くまで音楽です。それでも、音楽を本当に聴衆に受け入れてもらうには都合がいいという事実には変わりがありません+−−−−−+多くの子供たちにとって、また多くの親たちにとって、クラシック音楽は外国語同然なのですからね。つまり、彼らはクラシック音楽を聴くための耳を養ったり、想像力を働かせたりするだけの準備をしないままコンサートに来るのですよ。このようなミックスの目的の一つは、どんなレヴェルのものであれ、音楽とは楽しいものなのだということを示すことです。私たちは、自分たちが娯楽産業に従事していること、自分たちの仕事とは聴衆を楽しませ、感動させ、心からの感銘を覚えさせることであることを忘れてはなりません。それでこそ、未来の聴衆をキープするための道が開けるというものですよ。
Q:これまでは、未来に向けたあなたのプランについての話をうかがってきました。しかし、同時にあなたは110年の伝統を持つ組織のために責任を引き受けることになる訳です。しかも、その拠点地であるボストンは、どちらかと言えば保守的な気風で知られている街です。あなたのアプローチは、少々過激すぎるのではありませんか?
KL:私のアプローチの中でとても気を配っている点は、音楽のことです。ボストンには、音楽を非常に高いレヴェルで演奏することにかけては、素晴らしい伝統があります。私の仕事は、願わくば、その伝統の延長線上に来るものになるでしょう。確かにボストンは、保守的なことで知られています。でも、それならシンシナティだって同じ事ですよ
(訳注:エリック・カンゼル率いるシンシナティ・ポップス・オーケストラの事を念頭に置いているのだろう)だから、答えはこうです。どの街に住んでいる人も、音楽を楽しみたいと思っているし、喜んで音楽を聴きに来てくれるはずです。私たちが敬意を持って音楽に取り組む限りはね。シンフォニー・ホールに私たちの演奏を聴きに来てくれる聴衆は、音楽の演奏に対するそういうアプローチに応えてくれると、私は信じていますよ。それに加えて、願わくば、このオーケストラが長年に渡って維持してきた質の高い演奏が引き継がれていることにもね。
Q:その「引き継がれている」という感覚は、ジョン・ウィリアムズが名誉指揮者として今後もボストン・ポップス・オーケストラに留まることからも来るのではないでしょうか。彼と一緒に働くことについて、どう思いますか?
KL:私が初めてジョンに会う機会を得たのは、1994年の5月で、私がコンサートのためにボストンにやってきた時のことでした。彼は本当に思いやりのある、魅力的な人なんだということが分かりました。その上彼は、全く驚くばかりの才能の持ち主で−−−−多分、今日では世界一有名な作曲家です。『スター・ウォーズ』から『シンドラーのリスト』、交響曲に至るまで、彼がここ数年で創り上げた音楽の幅広さを考えれば、彼はポップスの世界に、他の誰にも持ち込めなかったものを持ち込んだのだということが分かります+−−−−−+それは、作曲家としての世界的名声と、アメリカの音楽的財産です。
彼がボストン・ポップスとの仕事を続けてくれることになって光栄に思いますし、これからも末永くここにいてくれることを願っています。
Q:仕事に就くのが待ち遠しいですか? KL:全くです。契約成立の発表を聞いて、私がこんなにホッとしているのも、ひとつにはそのせいなんですよ。これでやっと全力投球できるんですからね。
『ウィリアムズ・タイムズ16号』より
(原文:1995年ボストン・ポップス・コンサート・プログラム ) 訳:森山 彰
なお、キースは、97年のボストン・ポップス・エスプラネードの公演で初来日、2001年の同オケと2度目の来日を果たし、日本の観客にも定着、同年の8月には新日本フィルの客演指揮者として日本のプロ・オケと初共演を果たした。